アレクサンダーテクニーク(AT)にまつわることを、直接的にも間接的にもTwitter上にのせてきた。いくつかピックアップしのせて補足をつけておいた。(Twitterでは実践するなかでATをこう解釈したという部分が大きくなってます。)
2021 1/30
コミュニケーションの困難さは身体の緊張をほぐしただけでは解決されない、、心理も大事ではないかというレビューをみた。
何がコミュニケーションの解決になるのかは人によりゴール設定が違うから私はわからない。
が、ただ思うのは多くの人はコミュニケーションにおける困難さを、あまりにも心理的なものへ還元させすぎている気がする。
太陽の光を浴びる、、気持ちよぃ。なんだか気分的に明るくなる。
葉の擦れる音が気持ちいい。
おいしい……。(おいしさが身体全体へ広がるのを感じる)
友達と喋ってたら元気がでてきた。
人は日々、周りの環境に影響を受け応答しながら生きている。が、過剰な緊張状態におかれた身体は、周りの情報は入らない。自分が集中したい事だけに注意は注がれ、その外側で起きていることは省かれてしまう。
視野狭窄状態。
それはコミュニケーションでいうならば、相手を見ずに関係を良好するにはどうしたらいいだろうかと考え続けるようなものである。
そういうとき目の前の相手との関係を考えるのでなく、一般解=正解、攻略法、どうやったら(自分が)上手くいくかに向かいやすい。
緊張がほぐれることで、余白、余裕が生まれる。内外の情報が身体へ入ってくる。自分の考えから離れ、心身の状態に気づきやすくなる。同時に気づかなかった相手の状態も伝わってくる。言葉だけに注目してたものが、その人の声色へ、響きへ、呼吸へ、振る舞いへ、場へと外側に広がっていく。
アレクサンダーテクニークは自身とのコミュニケーション、扱い方を学ぶ事でもある。自身との関係性は、ままに、モノ、コト、人へと繋がっている。
楽器を使う人は、楽器を通して自分が使われるということでもある。いわば自身を媒体として演奏される。自分が自由な状態、機能的な状態でなければ、当然楽器もその力を発揮できない。自身が自由は楽器も自由。自身が自由は他者も自由。場全体が自由に開かれるということである。
2019 11/18
自身との関係性は、そのまま他者との関係性でも現れる。
関係性という全体の網において、自身も他者も関係ない。
うん、ストレートに言っている。
少し具体的に説明すると、自分を乱暴に扱う人は、同じように他者を乱暴に扱ってしまうという事である。多くの人は他者を乱暴に扱わないように気をつけるけども、自分には駄目だなとか、努力が足りないなどジャッジしてしまう。しんどいなどの身体から発せらるシグナルがあっても、頑張るために知らん顔をしてしまったりする。そう言ったことが身体の使い方にも影響してみてとれる。アレクサンダーテクニークはまず自身から始まる。
2020 10/30 Twitterでなく別の媒体で、あるインタビューアついて書いたときの一部(大幅に改変あり)
彼は基本中の基本としてジャッジをしないことという。また、彼/彼女らが言っていることが、どんなに間違って聞こえたとしても、そのように語るのは語りになるだけの必然性、過程があるという主旨のことを言っていた。
ジャッジすること、何が正しく正しくない(好き嫌い、解釈など含まれる)という聞き方は、その時点で他者の語りを離れている。私からみた物語、、解釈により歪曲されたものになっている。
ジャッジや解釈はレッテルとも似ている。レッテルを貼った瞬間から、レッテルを通して他者をみてしまう、、扱いだしてしまう。レッテルが他者を遠ざけるように貼られる時、互いの間に流れる時間は凍結される。溶解されるとしたら、レッテルから離れて自身の見解や関わりが変わってしまうことをよしとして、再び共にあるときだろう。
私のアレクサンダーテクニークの先生は、ヤクザという例をだして話を聞かせてくれた。ヤクザっぽいと思う人にでくわしたとする。その時に一番危険なのはヤクザだと思うなり、怖いモノであるという対象として扱い、全身でみないようにしまうことだ。
その瞬間からその人の身体から伝わってくる情報は遮断されてしまう。ただヤクザっぽいだけかも知れないし、ほんとに危害を与えようとするかも知れない。ただどちらにしろ、それっぽさに基づきシャットアウトはしないほうがいいというような事を言っていた。
ジャッジしないという態度。
逆説的だが、ジャッジしてしまうのはしょうがない。それはジャッジしてる自分に気づくとこから始まるから。ジャッジ自体をいけないと見なすとジャッジの連鎖に陥ってしまう。またジャッジ自体がいけないというより、ジャッジしてしまうという固定した状態から離れられなくなってしまっているのが問題なのかも知れない。構造から抜け出すこと。
2021 1/14
知的な理解が〈する〉モノなら、
身体的理解は〈される、訪れる〉モノである。知的な理解によりイメージされる延長戦にそれはないだろう。
アレクサンダーテクニークのレッスンを6回ほど受けた時の帰り道、先生宅をでて曲がり、坂道にさしかかった時である。いつもの道が全く知らない道に見えた。
建物ひとつひとつが異様な奥行きをもち私に迫ってきた。
それがとてもくすぐったく、ひとりクックックッと途中笑いが止まらなくなってしまった。(ある種の拒絶反応)
世界の感触自体変わったように感じた。それは私がレッスンを受ける前に想像していた自由さとは全く違っていた。
見えるものに奥行きを感じるということは思考にも影響を与えるらしい。
うまくいえないが優先順位というものがこの頃から自分の中で生まれた気がする。(それまでは優先順位というものはなく全ての情報が等価であり重要に扱う必要があるように思えた。←少し大袈裟に言ったかも知れない)
「視覚はよみがえる 三次元のクオリア」の著者スーザンは二次元に見るということは二次元で思考することであり、三次元に見ることは三次元で思考することである。三次元とは二次元とくらべ奥行きがあり立体的である。
と、そのような主旨のことを言っていた記憶がある。
変容について。僕の個人的な体験談。
最後に「視覚はよみがえる 三次元のクオリア」の一文を偶然、他の方のブログでみつけたので載せておく。(不同視弱視検査のためのアトロピン日記)
車の運転をしていていきなりハンドルがダッシュボードから飛び出して見えた
大きな湿った雪片がひらひらと舞い落ちて、
それぞれの雪片のあいだの空間がわたしにもちゃんと見え
すべての雪片が一緒になって美しい三次元のダンスを踊っていたのです
(中略)
眺めるうちに、深い歓喜に胸が震えてきました
↑著者である、スーザンバリーに立体視が訪れた時のこと。
まだあるが、とりあえず第一弾はここまで。